旧日本軍局地戦闘機「秋水」

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こんにちは神崎慎一郎です。

 もうすぐ夏休みということもあり、見に行ける面白そうなものを紹介したいと思います。

名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場の敷地内にある博物館です。

ここの幻の局地戦闘機「秋水」が復元されて残されています。

■オリジナルの外壁

■オリジナルの外壁

 時は今から70年前、アメリカ軍は極秘裏にに開発した原子爆弾をB-29爆撃機によって日本の広島と長崎に投下、2発の新型爆弾があっという間に大きな2つの町を焦土と化した。

 これをきっかけに昭和20年8月15日、日本は4年に渡った第二次世界大戦の幕を閉じ、連合国に無条件降伏したのだ。

 この当時、日本はアメリカに対し降伏などあり得ない、本土に上陸したアメリカ軍と本土決戦を挑み1億玉砕ととごうごしていた。

 日本本土に迫りくる連合軍の大部隊に対して、国民総玉砕とし、あらゆる兵器、車両、船舶、航空機に至るまで、男はもちろんのこと女、子供、老人をも動員し、国民一丸となって本土で敵を迎え撃つ作戦を考えていたのです。

 無謀といえば無謀ではあるが当時の日本人の心情を考えれば、十分察しはつく。

日本と連合国がこの狭い国土で「本土決戦」なる玉砕作戦を敢行していたなら連合国は当然新型爆弾を使えないばかりか、多大なる犠牲者を双方だしていたに違いない。

いや、アメリカ軍に本土決戦の意志はなかっただろう!

テニアン島にあったとされる原子爆弾30発は日本全土を焦土と化すには十分すぎる量である。

 当時の日本国に対して圧倒的な兵力差を示し、原爆を投下し、日本国に対して「無条件降伏」を迫ったのだ。それも降伏しなければさらに投下すると脅してまで・・・・・。

 原子爆弾の投下は多大なる一般市民の犠牲の上に成り立っており、降伏という屈辱が嫌いな日本国民に対して、覚悟を決めさせる「きっかけ」としては十分すぎるものであったが、当時のアメリカ軍はすでに連合国という枠を外れ、もはや暴走状態といっても過言ではない。

 世界大戦の代償をすべて日本に押し付け、日本に対していつどんな状態になったとしてもおかしくない。もしかするとこの極東の島国は永遠に消滅させられていたかもしれない。

 DSC_0173そんな終戦のさなか、なんとかこの局面を打開すべく、日本軍が作り上げた数々の秘密兵器のうち、原子爆弾を抱きかかえたB-29を撃墜しうる秘密兵器として、名刀と呼ばれた「秋水」の名前をあたえられた航空機があった。

 局地戦闘機「秋水」である。

 

この戦闘機は当時最先端の技術力を持ったドイツ第3帝国が誇るメッサーシュミットMe-163「コメート」が原型となっている。

当時、ロケットは日本でも火薬を燃料とした噴進砲として開発はなされてはいたが、液体燃料を使ったロケットモーターを使い、わずか3分で高度10000mまで上昇できる戦闘機となれば話は別である。

 当時の高高度レシプロ戦闘機では数十分の時間を要した10000mの高高度を飛行するB-29を撃墜しようと考えたのだ。並大抵の兵器ではない。まあ、そうはいっても当時の日本には高度12000mの上空で戦闘できる戦闘機などは存在しなかった。

 このためドイツの技術はどうしても入手したかったのだ。

とはいえ当時の日本人の工業能力からして、ドイツ軍と肩を並べるだけの資材もなく、人々の心理状況からして、見本通りに作りあげたコピー品を生産し、迫りくるB-29の脅威に対抗できる局地戦闘機の開発が精いっぱいであり、藁をもつかむ心境であったに違いない。

 しかしこのロケット機の導入は難航を極めることになる。

当時のドイツは日本と同じく物資が乏しく、わずかなタングステンやゴムなどの物資の見返りとしてこの機体をドイツから輸入する。

 しかし輸送中の潜水艦「イ-29」はシンガポールで撃沈されてしまう。幸か不幸か不完全な側面図とロケット燃料の成分表は何とか空路で日本に持ち帰ることができ、このわずかな資料を基に開発が進められることになる。

■わずかに残された図面

■わずかに残された図面

 日本ではこの装置を「噴進機関」と呼んでおり、液体型ロケットを燃料のエンジンを扱うのももちろん初めてであった。

 

 

 

 

 

 

 

■劇薬の過酸化水素巣を入れる容器。

■劇薬の過酸化水素巣を入れる容器。

 ロケットはジェットエンジンと違い空気を取り入れる必要がない。

したがって液体燃料ロケットは酸化剤として「過酸化水素水」に「メタノール、水化ヒドラジンと水」の混合水を化学反応させるというシステムであったが単純に混合さ

せて燃焼させればよいという代物ではなく、おまけに過酸化水素水の扱いは非常に難しく、人間の皮膚に触れると皮膚がドロッととけてしまう劇薬扱いだったのです。

 えっ?過酸化水素水ってあの消毒で使うオキシュールじゃないのと思われた方、年を感じますね。確かに殺菌性があり薄められたものが用いられますね。

 こんな危険な兵器と分かっていても、高性能で、安価に作れるもので起死回生をもくろむところは末期的としか言いようがありませんね。

 この「秋水」結局試作され、飛行実験も行われます。制作された機体は数十センチの側面図を拡大して制作されたためMe-163よりも若干大きかった。

 キ-200のコードネームで開発され試作されます。

最初に試作された機体は海軍の犬塚大尉が操縦し、試験飛行中に墜落。すぐさま貴重なデータをもとに改良がくわえられ2号機が試作されます。しかし2号機のエンジンはテスト中に爆発。2号機は飛行しないまま終戦を迎えた。

■米軍に寄せ集められた機体。

■米軍に寄せ集められた機体。

 

■B-29を撃墜するための30ミリ砲

■B-29を撃墜するための30ミリ砲

 

 実は秋水は組み立てが進められていた3機を含め5機が組み立てられていたという。

このとき墜落した1号機の機体は土中に埋められていたが、昭和36年に横浜市の「ニッピ」工場敷地内から発掘される。

 当時はまだ日本に対して飛行機開発が厳しく制限されていたため、ひた隠しにされた。

平成9年なってようやくこの機体は自衛隊に引き渡されるが、この機体はもはやスクラップとしてしか価値はなかった。

 開発元であった三菱重工名古屋航空システム研究所が受領し、復元プロジェクトが進行することになる。

 もともとMe-163のコピーと考えられていた機体であったが、日本の秋水は、外観などの主だった部分以外は全くの別物であり、日本のオリジナルであることが判明。

 主翼に至っては木製で2から3回の再使用しか考えられていないものだと判明。

 

■車輪は空気抵抗が大きいため離陸と同時に捨てられる。

■車輪は空気抵抗が大きいため離陸と同時に捨てられる。

 

実のところ速度も800㎞/hに達して速すぎたため、B-29を攻撃後、離脱するどころの騒ぎではなかった。結局、実用化されても特攻機になる運命だったのだ。

 幸いにも2号機は終戦後、3号機とともにアメリカ軍に接収され現存していたため、これを参考に完全復元された。

 今は復元機を県立名古屋空港内の三菱重工博物館で実機を見ることができる。ただし一般公開は月曜日と木曜日のみなので要注意。

 実際に飛行できるものではないが、当時の秘密兵器としての生々しさが伝わってくる。アメリカへ接収された機体は、カリフォルニアのフレーンズオブフェイム博物館に展示されている。

秋水は本土決戦用に1945年9月までに1300機、1946年3月までには3600機が実戦配備される予定であった。まさに狂気である。誰が操縦するつもりでいたのだろうか?

当時の人々の心情に思いをはせるのもまた悲しいものがある。


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