清明塚

清明塚

今からおよそ1000年前、陰明師・安倍晴明は、荒波とどろく遠州灘に面したこの地に立ち寄ったところ、しばしば村をおそった津波の被害を村人から聞かされる。村人は晴明が京都から来たえらい陰陽師と知ると、津波の被害から救ってくれるように懇願した。すると晴明は、海岸にほど近い場所で、あずき色の小石を積み上げて熱心に津波防止の祈祷を行った。その後、近隣の村に津波が襲ってきても、この村だけはなぜか津波の被害が及ばなくなったといわれている。村人たちは自然の猛威を鎮めた晴明の偉業をたたえてこの塚を祀り、ここを晴明塚と呼ぶようになった。

清明塚この後、ここ晴明塚は人々の心の拠りところとなり、この塚に祈願すると疫病にかからないと信じられるようになった。病気にかからないようにこの塚で祈願した後、小豆色の石1個を借りて持ち帰り、無事を報告するお礼参りの時は、石をもう1つ持参して2個にして返した。すると返した石がどんな色の石でも一夜のうちに小豆色に変わった。と言い伝えられていて、遠州七不思議の1つに数えられている。実際、疫病の流行期には遠近から多数参詣者があったようだ。

こんな言い伝えが残る晴明塚だが、静岡の掛川に安倍晴明伝説が残る場所があるとは驚きだ。

それも強い念を封じ込めたようなこの塚はまるで晴明の念力そのもののパワーを感じずにはいられない。

安倍晴明は、940年ごろ平安時代に京都に生きた陰陽師と呼ばれる呪術師で、天皇家に仕え、怪しい術を使い、式神を操っていたといわれている。さまざまな物語に登場して、怪しい物の怪を退治したり、封印したりと数々の伝説、伝承が絶えない人物。常に怪しい術を使い、家の近くの一条戻り橋の下に式神を住まわせたと言われている。また式神を常に自分の下に置き、身の回りの世話をさせたりしていた。晴明の屋敷に用のある客が、一条戻り橋を通ると式神が素早く晴明にしらせ、家では女中の式神を使って来客に備えたと言い伝えられている。

また安倍家は私たち静岡にもゆかりが深く、家康は晴明の子孫の安倍家陰陽師を多く抱え、駿府の町づくりをしたともいわれている。

私がここを訪れたのは梅雨入りして間もない6月の初めだった。

晴明塚には夕方5時30分ごろに到着、しかしまだまだ日は高い。夕暮れが伸びたなと感じたが、6月も半ば当たり前といえば当たり前か。

何故こんな時間になってしまったかといえば、この日私は2時ごろまで三島でやぼ用を済ましていた。

清明塚明日でもよいと考えていたが、何故かこの日は夕方から薄曇りで、雨も降りそうもなかったこと、この日のうちに無性にこの晴明塚を訪れておきたい衝動にかられていた。まったくもって何故だかわからないが・・・・。

夕方、ようやく晴明塚へと続く入口に到着、海岸へ続くうっそうとした林、おや?ここは依然来たことがある。そう1年ほど前であった、きれいな海岸があるこの地域に見に来た覚えがあった。日本ではないような海岸線が続くこの場所は、ウミガメの産卵場所でも有名である。

実は、この晴明塚は知ってはいたが、その時はこんなに近いとは思ってもみなかった。

あの海岸だ。そう思いながら林の中へ15mほど入る。すると何の小屋だかわからない汚い小屋が目に入った。その小屋を通り過ぎようとしたとき、竹で囲われ場所に晴明塚がぽつんと現れた。

入口のうっそうとした感じとは裏腹に、その空間だけ木が生い茂っておらず、夕暮れの太陽がほんわりと降り注いでいた。

不思議なことに、林の中にいてもこの晴明塚だけ明るいのだ。

清明塚写真を撮ったので見ていただきたい。きっと不思議なものが写っているはずだと感じてはいたが思った通り虹色の光と丸いオーブが写っていた。不思議な写真となった。

この場所は気味が悪いが怖くはない。でも何かがいるような気配がある。さすが陰陽師。きっと何かをこの場所、いやこの地域に封じ込めたに違いない。いや、封じ込めたという表現とは違う、封じ込めたのではない、配置したのだ。この薄気味悪い雰囲気はそのせいだろう。怖くないのはその気自体がこちらには向いていないせいだ。ただ、その時感じた気は、1匹や2匹でないことは、確かなようだ。わさわさとざわめく。

この強い気が1000年たってもなお、この地域に漂っている。不思議な場所だ。たぶん小豆色の石の正体はこの気だろう。そうここにいる気配「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」という言葉が正しい表現なのかもしれない。

今度小豆色の石を一つ借りてみようか。

神崎慎一郎

 

 


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